天皇陛下が心臓のバイパス手術をされた。
執刀医は順天堂大の天野篤教授だ。最初は東大出身者と思いきや、三浪後、日大医学部入学の雑草育ちで、ほぼ、我が愚息(次男)と同じ経歴というところが、興味深く感じていた。
天野教授は歯に衣着せぬ性格なようで、手術中でも、ミスがあるとガンガン怒鳴りながら注意を与える姿がTVに映し出されていた。
関東逓信病院でも、亀田総合病院でも、上司ですらガンガンとやるものだから、本人曰く
「君といると気が休まらない」と言われクビにされた事もあったとの事だ。
我が医院の勤務医をみていると、それぞれに器があり、すぐにでも院長になれそうなリーダータイプと、ずっと勤務医でやっていた方が良いようなフォロワア―タイプと、その中間型に分かれる。
さしずめ、天野教授は典型的なリーダータイプと思われる。
かつて我が医院でも、ダントツのリーダータイプのKというドクターがいた。
Kは私の大学の後輩で新卒で就職してきた。
彼は天才肌で、自分の主張を貫くタイプだった。よくも新卒でこれだけの仕事ができるものだと感心していた。
一方において、明らかに自説を曲げないので、正直言って、天野教授の先輩と同じく、非常にやりにくかったが、将来的に自分で開院すれば、いい院長になるという予感を持っていた。彼と1年あまり一緒に仕事をしている頃、彼が折り入って相談があると、話を持ちかけてきた。話をしてみると、彼よりも1年長の先輩勤務医より待遇を1.5倍~2倍にしろとの事であった。
理由は彼より、自分の方が能力があるのでそうして欲しいとの事だった。
私は唖然とした。
彼が医院を退職したい為の自爆テロかというように解釈し、「医院を辞めたいの?」とせまった。彼は真剣に彼の論理から昇給を望んでいて、私の常識では到底それに応ずる事はできず、話し合いの上、彼は私の医院を1年足らずで去っていった。
おそらく、入った時のドクターとしての技術的は資質はトップであったかもしれない。
最後に私は彼に言った。「中畑には長嶋の教育は出来ない・・・」
中畑とは私の事であり、もうすでに技術的に私を超えていた天才Kは郷里に帰って一刻も早く開業準備をして大将になったほうが良いと判断していた。
最近では、開業事情も厳しくなり、中には少なからず失敗するドクターも出てきている。
ドクターが開業したいという時、なるべくそのドクターが望むなら、開業先を一緒に見に
行ってやり、それが成功するか失敗するかを判断してやるようにしている。
開業適地で、もう開業する器を身に着けていれば、当院としては打撃になっても、心を鬼にして開業を勧めるようにしている。
私達が開業した時のように、どこでも成功するというわけにはいかなくなっている。
非常に厳しい現実が迫っており、開業を諦めて、一生勤務医でいたいというドクターも次々と出現している。
Kが退職して10年程して、思ったようにKは中部地方のある都市で開業し、大成功を収めている。という話を聞いていた。Kの退職後全く音信が途絶えていたわけではなく、時々、思いついたように、連絡は取っていた。
ある日、小田原駅のプラットホームでばったりとKと遭遇した。
Kに「だいぶ調子いいそうじゃないか」と言うと、Kは嬉しそうな顔をして、Kの開業がうまくいっている事と独特なKらしいやり方で患者さんを集患しているという話をし、
「先生には感謝しています。人を雇うようになって、先生の気持ちが解りました。」と最後に言ってくれた。
私としては1年で放り出したようなもので、申し訳ない気持ちをずっと持っていたが、わだかまりが消えて嬉しかった。
天野教授は自身でクビと言っていたが、その後、昭和大教授から順天堂大教授へと、そして医師としては最高の栄誉と思われる今回の活躍とつながっていった。エリートコースを歩むことだけが、その素質を伸ばす事ではないと思っている。
Kの嬉しそうな笑顔を思い浮かべながら、人は色々な場を与える事によって、その才能を伸ばすものだと思った。