シースルーのひと(Kさんを悼む)

1月の末、大学の同級生のI君から電話があり、同じく同級のKさんの死を知らされた。

62才というあまりにも早い死に胸がつまる思いだった。

 

思いあたる節はあった。

今年の年賀状に、癌で闘病が16年経った事、抗がん剤で10kg痩せ、顔はむくんでいてマスクをしなければならない事、孫が生きがいである事など、今までの簡潔な年賀状と違い、そしてまた筆跡が震えていたので、何か悪い予感はしていたが、それにしてもこんなに早くになるとは思わなかった。

葬儀は密葬にした様で、その後何人かの同級生に電話したが、皆知らされていなくて、びっくりしていた。

Kさんは在籍40人いるクラスの中でも、とりわけ目立つマドンナ的存在だった。

現役で都立M校から入学し、才気煥発で、ころころとよく笑う明るい女性だった。

東京出身の女性は彼女1人で、彼女の東京弁を聞くと、遠く離れた北海道で“東京のかおり”を感じさせてくれた。

私は教養の1,2年は寮に入っていて、授業は出席のうるさい語学の週4時間しか出ず、寮の自堕落な生活が中心で、クラスの皆とは全くなじむ機会がなかったが、たまに出るドイツ語の授業で、彼女がドイツ人のごとくすらすらとテキストを読んでいると、全く別世界の人の様で、私と比較すると、さしずめ“王様と乞食”ならぬ“王女と乞食”の様だと思っていた。

寮で彼女の話を出すことが多く、いつの間にか、私が彼女に気があるという話を悪友のTが創作してKさんに伝えた。

おせっかいやきのTはKさん宅で会食会をやるという事を設定して、今は故人となった寮で同室のYと4人でKさん宅で食事会を行う事となった。

Kさんは料理の才能もあった様で、日頃寮の貧弱な食事をしている我々にとって、十分に堪能させられるひとときを過ごした。

そんな時、泥酔したYがとんでもない事を言いだした。

「Kさん、こいつKさんにホの字で、いつも寮でKさんの話をしているんだよ」

それにつられて悪友のTもやんややんやと相槌を打った。

慌てたのは私で、Kさんは友情は感じていたが、それ以上の感情はなかったので、やんわりと否定していると、Kさんが

「ごめんね、市島君。私はもう心に決めた人がいるの」とか言って、

2期上の先輩の名前を言った。

こちらもそこまで気がないので「それはおめでとう」とか言って、ほうほうの体でその場を退散した。

しばらくすると驚くべき事が起きた。

Kさんが何と、シースルールックで教室に現れたのだ。男どもは皆息をのんで見て見ぬふりをして見ていた。

Kさんは授業が終わったら、仲の良いS女史を帯同して、悠々と教室を去って行った。

彼女はもともと豊満な体型で、シースルーを着ると、いっそうセクシーであった。

まさかもう1回アンコールというわけにもいかず、それを楽しみにして普段出ないような授業にも出て、シースルーの再来を心待ちにしていた。

チャンスはやがて訪れた。

彼女が再びシースルーを着て、さっそうと現れた。

私はあたふたと彼女の席の後ろの席を陣取った。

その時彼女は振り返って私がいるのを確認し「ニヤッ」と、私の方に笑顔をむけた。

「悪女か」男を翻弄しているのだなと実感した。

卒業して、彼女は2期上の先輩と北海道で開業して非常に繁盛しているとの話を聞いた。

私はといえば、大学病院勤めをして、そして結婚をし開業した。

彼女が何らかの理由で、北海道から東京へと開業場所を変えた時、1度だけクラス会で逢った。

「市島君、ずいぶん洗練されたじゃない。昔は……」

言わずとも解っていた。

それが彼女とじかに逢った最期となった。

それからは、お互いに忙しく年賀状だけのやりとりとなってしまったが、彼女は家庭生活も充実しているようで、長男が有名私立に入った後医者になったとか、幸せそのものの文面であった。

年賀状の文面が変わったのは、やはり15年程前からで、程なく彼女が癌に侵されて闘病に入っているとの事をTから聞き及んだ。

4~5年前、Tが急にKさんと逢いたくなったとかで、私も誘われたが「私はもうすっかり変わってしまったので、市島君やT君と逢う勇気がないです。メールだけのやりとりをしましょう」との事であった。

私は癌との闘いに彼女らしく挑戦している所を見たかったが、おそらく彼女の“美意識”がそうさせなかったに違いない。

あの時、何故彼女がシースルーを着て来たのか、そしてなぜ“悪女”の微笑みをしたのか、いつか聞いてみたいと思っていたが、とうとう果たせずに終わってしまったが、やがて私も冥途に行った時、彼女を訪ねて、どういう気持ちで「シースルー」を着て来たか尋ねてみたいと思っている。