平尾昌晃とは

大学4年の頃、近所のアパートに住んでいた同級生のTが息をせき切って私の部屋に転がり込んできた。
「おい、市島、平尾昌晃に会ったぞ」
Tの行ったススキノの飲み屋のカウンターの隣に平尾が一人でいて、どこかで見た顔だとしげしげと眺めていたら、向こうの方から、
「僕、平尾。サインほしい?」と自分の方から言ってきて、別に欲しいとも言わなかったのに、さらさらとそこら辺の紙にサインしてよこしたそうだ。
当時の平尾といえば、五木ひろしの「よこはま・たそがれ」や小柳ルミ子の「わたしの城下町」など戦後日本を代表するヒット曲を次々と作曲して、まさしく飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

一方においてTは兄弟がいっぱいいて、本人曰く「極貧」で月に10日位は、夕食は学食で味噌汁と納豆だけ。たまにコロッケかやせた鮭がつくといったような生活をしていた。
それでも彼は未来にはいろいろな希望を持っていて、当時は共産党の下部組織に入っていて、学生運動に没頭していた。
彼とは政治信条は別として、大変気が合った。
とにかく貧乏で家庭教師を3ヶ所、そして不定期のバイトまで様々やっていたが、彼には共産党支持者とは似つかわしくないブルジョワ志向があり、時々大金をはたいて美味しい物を見つけては、せっせと出かけて行っていた。
しかし、Tと平尾の取り合わせはその時は感じなかったが、今となっては当時から億万長者だった平尾と、おそらく学部でも一番貧乏だった学生がススキノの飲み屋のカウンターで談論風発したのは大変興味深い。
Tはその後共産党とは縁を切り、北関東のT県で開業医として大成功し、気の短かった彼らしくあっという間に50代で癌で他界してしまった。
平尾と議論をしているうちになかなか「おもしろい人間だった」と言っていた。
Tがその居酒屋に行くのは解るが、平尾がなぜそんな庶民的な店に現れたのか。高級ホテルのバーあたりで飲む姿が似合いそうで、Tと平尾が隣り合わせになったのを想像するだけでおもしろい。

私は個人的に、平尾作品の中ではアン・ルイスが歌い、その後テレサ・テンに歌い継がれた「グッド・バイ・マイ・ラブ」が一番好きで、よくカラオケでも歌った。
この曲は作詞がなかにし礼で昭和49年学部に移行した時に出来た曲で、なかにし礼と平尾の感性と感性のぶつかり合いのなせる名曲だと思っている。
幼い頃、ロカビリーでそっくり返っている平尾や、カナダからの手紙で畑中葉子とデュエットしている時は、あまりにも軽い感じであまり好きではなかったが、数年前紅白歌合戦でタクトを振っている嬉しそうな平尾をNHKホールで見て、本当に歌が好きで、歌の力、歌の素晴らしさを感じ通した素晴らしい人生を歩んでいると思った。

Tとの安酒場での出会いも“感性”を磨くために彷徨い歩いていたのではないかと今では思っている。
やはり彼の力は偉大だったと思う。そして冥福をお祈りしたいと思っている。