キンシャサの奇跡 (蝶のように舞い蜂のようにさす)

モハメド・アリ(カシアス・クレイ)が亡くなった。

中学に入った時、テレビでソニーリストンの世界戦を見て、カシアス・クレイ(モハメド・アリ)に魅了された。

アリ自身は認めていなかったようだが、白人との混血で端正な顔立ちからくり出すパンチは目にもとまらぬ速さで、なにより格好よく、中学高校の時の番長Hとよくアリとソニーリストン戦を真似して、ボクシングをやったものだった。(ほとんど私がリストン役をやらされたが)

アリが人種差別に反対し、黒人ゆえに入場をレストランから断られた時、ローマオリンピックの時にとった金メダルを川に投げ入れた話にはしびれた。

アリはその後ベトナム戦争に反対して、徴兵拒否をした。

この3~4年の間が彼にとっての全盛期で、普通はここで終了という事となるはずだが、必死でカムバックを果たし、私が大学3年の時、当時全盛を極めていた、ジョージ・フォアマンとの世紀の対決にこぎつけた。

当時札幌で行きつけの喫茶店にテレビがあり、そこの店主もボクシング好きで、その喫茶店に行って世紀の対決を見せてもらうという事と相成った。

あいにくと、歯科理工学の授業とかぶり、出席だけとって授業をエスケープし、喫茶店で観戦すると言う作戦をとった。

試合は皆の予想の、フォアマン圧倒的有利をくつがえし、アリの、打たせるだけ打たせて反撃するという作戦が成功し、アリが勝利し、喫茶店のオヤジと10人程いた客とともに勝利の雄叫びをあげた。

世にいう「キンシャサの奇跡」である。

 

学部に入ってからは、私は結構勉強もしていたし、要領もよかったので、再試験というものが全くなかったが、この年の年度末試験で歯科理工学だけ再試になっていた。結構できたつもりで納得がいかないので答案を見せて欲しいとO教授のところに出かけると、59点で落第になっていた。

なかでも、正解が“スプルー後の傾き”であって、私は“スプルー後の傾斜”と書いてあって過ちとされていて、配点5点でそれがあっていたら合格という事で、納得いかないと言ってごねていると、みるみるうちに教授は機嫌が悪くなり、周りをみると5年年長で理工学教室に残っている先輩が、ヤメロとばかりに私に目配せをしていた。

廊下に出ると、その親切な先輩が

「おい、イチジマ。お前なんでO教授があれだけ怒っているか知っているか」

「O教授は落とすと決めたら絶対落とすぞ。再試は口頭試問なのでお前に難しい質問をぶつけられて沈没だ」

「大体、何で教授があんなに怒るか分かるか?教授が大のボクシングファンだという事を知らなかったか。君が例のアリの試合を授業を抜けて見に行ったのを教授はお見通しだ。君も知っているTやSもO教授に睨まれて落とされた。これ以上ドンパチやったら、絶対落とされるぞ」

「お前がアリの試合を教授の授業をさぼって見に行った事を教授はお見通しだぞ」

「悪い事は言わないから、これから一週間お茶でもくみにきて、理工学の勉強をしろ」

こんなので留年させられたらたまらない。

怒り狂うオヤジの顔が脳裏に浮かんだ。

それからは、毎日朝9時から4時まで北大図書館に行き、その後せっせとO教授の部屋に行き、

「先生、質問があります。お茶をくませてください」と言って、

6時ぐらいまでねばって、O教授のご機嫌をとった。

10回ほど毎日それを続け、O教授はもともと温厚な性格で、日に日に機嫌が良くなっていった。

再試は口答合同試問という形をとり、ほとんど私に質問はなかった。

皆答えられない質問があると、

「イチジマ、教えてやれ」と言われ、すらすらと答えると、皆「スゲー」とか言って不思議な顔をしていた。

首尾よく試験は通った。とんだアリ効果だった。

 

アリはその後“撃たせてその後反撃する”戦法が災いして、パンチドランカーとなり、手が震えるようになってしまった。

その後、アリを見たのはアトランタオリンピックで、聖火の点灯を震える手で行い感動したものだった。

その後幾多のボクシングの試合を見たが、全盛期のアリの試合を上回るものは一つとしてなかった。

モハメド・アリ、ビートルズ、王・長嶋と、私の青春の思い出の

“昭和”がまた一つ消えていく。