初心

毎年3月4月は「お別れ」と「出発」の季節で、去る者と来る者が交錯する季節である。
今年も何人かの高卒新卒のいでたちを見るにつけ、思い出すことがあった。

あれは、今から35年程前。
昭和大の歯科病院に勤務していた私は、アルバイトで、ある都内の下町医院に勤めていた。
そこには中卒で16才のS子という助手の子が勤めていた。S子は実際の年齢より若く見え、髪の毛は茶髪で、目がくりっとした、我々のことばで言えば“イカレポンチ”(古いが)といった感じの、それでも居るだけで、周りがぱっと明るくなるような娘であった。
ある時、そのS子の近所に住んでいるAさんという60才程の初老の婦人が患者でやって来て、下顎の遊離端義歯(下あごの奥歯のない部分を補てんする入れ歯)を作るという話になった。
過去、何カ所もの歯科医にかかり、今まで満足したものは一つとして出来ていないという話であるため、そのころ普及しはじめたインプラントをすすめた。Aさんは
「先生、5万円出すから、いい入れ歯を作ってよ」とのことであった。
私は5万円が出せる限度であれば、保険でやった方が良いという事と、入れ歯には向き不向きがあって、どうにも入れ歯を入れられない人がいる事と、下顎の遊離端義歯は難しく、使わなくなっている人が多いという話をしたが、半ば押し切られるような形で、望むとおりにやることになった。
入れ歯が出来てきて、それなりにしっかりした入れ歯であったが、やはりAさんは入れ歯自体が向いていないようで、5、6回ほど調整した後で、使える使えないで口論のような形となってしまった。
そのうち、毎回口論のような形となり、その後S子が間に入って、Aさんをなだめるような状態がずっと続いた。
そんな状態が10回程たった時、もうこれ以上調整を続ける事は無駄だと判断して、延長ブリッジその他の他の方法をとるように説明を始めた。
私としてはAさんは、入れ歯自体が苦手であり、インプラントなり延長ブリッジにすることとして、追加料金がかかる旨のお話をした。
Aさんは、だんだんと言葉数が少なくなり、無言で考え事をしているような様子がうかがえた。
当方としても方向性を出してほしいと思い、次回までにどうするか結論を出してほしいとの事で、次回のアポイントを約束して、何回目かの治療を終えた。
その日の診療も終わり、帰りじたくをしていると、ドクター部屋の入口にS子が立っていた。
目に涙をいっぱいうかべ、それでも視線はまっすぐ私の方に向けられていた。
「先生、先生の事、事務長がエリートだと言っていたけれど、先生はたいした事ないよね」
「あのおばさんは私の近所に住んでいる人で、食いしん坊でいつも入れ歯の愚痴を言っていて私に相談してきたから、大学病院からいい先生が来ていると言って、私が引っ張って来たんだ。先生みたいなお金持ちにとっては5万円はたいしたお金じゃないけれど、あの人は手内職をしていて、やっとためたお金なんだ。困っている事があった時、採算を考えずに手を差し伸べるのが、お医者さんなんじゃないの~」
S子の目からは涙が流れ落ち、それが床にぽたぽたと落ちていった。
私はといえば、ただ唖然としていて、S子の発言を無言で受け止めるのが精一杯であった。
しかしながら、ハンマーで後ろから叩かれたような衝撃を感じざるを得なかった。
バイトをしていた西新井から、当時住んでいた武蔵小杉までの電車の中、卒業して2年経ち、一通りの事が出来るようになり、当初の、患者さんから尊敬されるようなドクターになりたいという気持ちから、いつの間にか驕り高ぶりのようなものが少しずつ溜まって、当初の志からはずれた様になっていた自分を深く反省した。
次の日、私は理事長に、Aさんの入れ歯を自腹を切って直すので、それを了承してもらうように電話をして快諾をもらった。
2回目に作ったものは、Aさんに大変喜ばれ、
「先生ありがとう。何年かぶりにお新香が食べられたよ」と言われ、今までとはうって変わった様な笑顔を見せてくれ、S子も
「先生、見直したよ。さすがエリートだね」
といつもの快活な彼女に戻っていた。

人は、初心の時、誰しもが志を持つと私は思っている。
本日も、来月から来る新人との昼食会があった。
希望に胸をふくらまし、一生懸命にやろうという気持ちが、それぞれあふれていた。
私が27才位の時、S子は16才だったので、今頃は50才位になるのだろう。
アルバイト先を辞めた時、一度だけ私の声を聞きたいと言って、電話をくれた。
その時どんな話をしたのかは全く覚えていない。
35年を経て、あの正義感にあふれる真っ直ぐな視線で、彼女は世の中を見据えているのだろうか。
その後、幾多の新人が集団に飲み込まれ、濁った眼差しになるにつれ、この世の中で、きっとはつらつと生きているS子に逢ってみたくなる3月のある日だった。