つかこうへい氏死す~ そして父と教育

劇作家・演出家の“つかこうへい氏”が他界した。
私も高校に入りたての頃、劇作家を志した事があった。
つか氏は私の長年の憧れの人だった。
高1のある日の事、父が珍しく私に将来の進路を聞いてきた。
そこで恐る恐る私は、“将来はW大かK大の文学部に行って、作家かジャーナリストになるつもりだ”と述べた。
父は真剣な顔をして激昂し、文学部じゃ食べていけない・・・同じW大でも理工学部へ行けと、
とくとくと自分の回りで文学部に行き、失業状態になっている人間の多さを述べ立てた。
父は小学校からA学院育ちで、ペギー葉山と竹脇無我が後輩であることを自慢にしていた。
余談だがサザンの桑田がテレビに出始めのころ、奇妙な格好と奇声をあげて登場したのを、父は「何だこいつら!」といったので、私がタイミングよくあれもA学院出身だと言ったところ唖然とした顔をしていたのが忘れられない。(後の桑田氏なら自慢していたに違いない)
父は船長になりたくて、商船大学を受験したところ、理科系科目が不振で受験に落ち、極端な“理系コンプレックス”の持ち主であった。
私には小学校の高学年のあたりから事あるたびに、“オーバケ(応用化学)に行け”
“トーコー大に行け”“早稲田のリコーに行け”と、耳にタコができて破れそうなぐらいに言われた。
私の通信簿も小学校の時は算数、中学・高校に進むと数学と物理化学のみしか見なかった。
いくら英語で満点の成績をとったにしても「英語はアメリカやイギリスに行けば乞食でもしゃべれる」というわけのわからない事を平然と言ってのけていた。
その結果、私は数学・物理は大嫌いになり、ますます「太宰治」や「三島由紀夫」にのめり込んでいった。
父は数学のできる人間は頭がよく、できない人間は馬鹿なのだという論理をもっていた。
中学入試の面接の時も、面接官に等々と日本は貧乏国で資源もなく、技術で身を立てなければならない、そのためには理科教育が必要だと述べ立て、試験官をうならせる程であった。
人間というものは苦手なものを押しつけられると反発する。
私は高校の頃から、数学と物理を見るのも嫌になり急角度で成績が下がっていった。
高2の終わり頃、不意に出張先から叔父が我が家に尋ねてきて、父と酒盛りが始まった。
父は得意の「オーバケ」を始めたところ、数少ない“父が言う事を聞く1人だった叔父は、「お兄さん、オーバケはもう古いですよ」と言ってくれて、私の進路をT大の法学部かH大経済学部の文系に転向するように諭してくれた。
それから父の「オーバケ」は影をひそめ、それと同時に私は化学の周期律表と数学のおもしろさに突然目覚め、一時は数学科に行って数学者になろうかと思う程、数学にのめっていった。
(当時の数学の先生に才能がないからやめろと言われたが・・・)
社会人になって昭和大学に勤めていたころ、主任教授であった和久本先生に折につけ教授室に呼ばれた。
教授は最初、日頃のねぎらいと私の数少ない良いところをほめちぎる。
私は天にも昇るような気持ちで有頂天になり恍惚状態になっていると、最後に何か1つ私の失敗をさとされた。
愚かで未熟者の私は、ほめられが80%で注意が20%だなと思い、その20%を補てんすれば良いとの思いでおおいに反省し精進した。
今から思えばほめは10%、注意が90%だったのだと思う。
教授は実にうまく、私のような未熟者の心の中にすんなりと入って注意を促す人生の達人だったのだ。
戸塚サクラスで新院を開院し、多くの新しいスタッフと仕事を始めている。
いろいろ不安な点もあるが、新しい才能と触れ合うのは驚きと同時に楽しい。
仮歯を作らせたら、短時間に本物以上の出来栄えの物を作ってしまうドクターや宣伝用のビラを折らせてたら、目にもとまらぬ早さで3つ折りに折ってしまう受付嬢。
人間それぞれ、隠れたところにあふれる才能をもっているものだ。
古くは“山下清”や新しくは“イチロー”と、素晴らしい才能を開花させるためには「隠れたすぐれた指導者」がいるものだ。
父親の盲愛で私の才能は危うくつぶされそうになった。
教授の合理的な手法で私は救われた。
これからも従業員の、あふれるばかりの才能をつぶさないように、
1人でも多くの“山下清”や“イチロー”を育てていきたいと思った。