孫正義氏

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小学校3年の時だと思う。
席が隣のSさんは、利発な子で少し気が強かったが、私とは話が合い、初恋という程ではなかったが好感を持っていた。
 夏休みの終わり、担任の先生がいつもとは違う厳粛な面持ちで、Sさんが在日だったこと、それに対して差別的な発言をした者がいて(児童なのか父兄なのかは話さなかった)ショックをうけたSさんとその家族の意向で残念ながら転校に至ってしまった、という説明をした。
 担任は、大変リベラルな人で、このような事態を憤慨していた。 家に帰ると母もその事態を知っており、やはり憤っていた。
 9月になって下校中、Sさんを見かけるとチマチョゴリの制服を着ていて、私の姿を見るや逃げるように脱兎のごとく走り去ってしまった。
 大学卒業の時、まだ学園紛争華やかなりし頃だったので、卒業式は分散で学部ごとにやっていた。そのとき、北大は卒業者名と本籍が書かれていて(何の必要性があるか解らなかったが)、私は、東京都と記されており、親友のM君のところをみると、何と本籍が韓国と書かれていて、その時初めて彼が在日だという事を知った。その日は、彼と国家試験用の勉強会をすることにしていたが、さっきまでいた彼の姿は教室にはなかった。
 勉強場所に指定されていた彼の家に行ってみると、「市島君、今日は勘弁して」と悲痛な叫びをあげ、ドアを開けようとしなかった。
 国籍は韓国だからといって、どうって事ない、SさんにしろM君にしろ、その人間性に魅かれ、付き合っているのだから、、、、、
 その後M君とは、彼の国籍に言及することなく、変わることのない旧交をあつめている。
 しかし、Sさんと最期にあった時の恐怖におびえているようなまなざしは何だったのか。
 現在ではもう考えられない、日本の韓国、朝鮮に対する暗い差別意識がそこには存在していて、私はいたたまれない気持ちとなっていた。
 今度の震災で感動したことの一つに、孫正義氏の私財を投げうっての100億円の寄付があげられる。
 彼は言うまでもなく在日で、ずいぶん自分の出自について、また差別について、悩んだ時期もあったようだ。
 彼の初期の日本名である安本(やすもと)をアンポンとよばれ、ばかにされたこともあったらしい。しかし、私から見れば、彼こそ日本人らしい日本人だと思う。
 彼は韓国人ではなく韓国系日本人だが、彼ほど日本を愛している者はいないだろう。
 被ばくする小さな子供たちを恐れ、原発を恐れ、新しいエネルギーを開発しようと、地方の首長と共同戦線をはっている。
 彼のことを売名行為とか、政商とか言って揶揄する人間もいるが、いまさら売名もお金儲けも彼には必要ないだろう。
 豊臣秀吉から始まった韓国へのバッシングによるわだかまりも、最近の韓流ブーム、ヨンサマ、KARA、少女時代で雪どけ状態になってきた。
 この潮流に乗り、Sさん、M君、孫正義氏が陥ったような悲劇を二度と味あわせないような日本人社会となることを切に願っている。