決め事

「市島君、開業は1に場所、2に場所、3,4がなくて5に愛嬌だよ。」
当時、勤めていた医院の理事長で、私の開業医としての師匠である佐藤恵宣先生のことばだ。
「先生、実力とか品格とかマナーとかは、なしですか」
と言ってはみたが、先生は笑われるだけの答えを出してくれなかった。
当時はまだ20代後半の新婚時代で東京の自由ヶ丘に住んでいた。
自由ヶ丘の近所で、がらにもなく開業しようと思い、佐藤先生に見てくれませんかと言うと、快く引き受けていただき、わざわざ市川から来ていただいて、物件判断をしていただいた。結果はOKで嬉しかった。
よし、やるぞと思う半面、自分が必要とされていないのでは…との複雑な気持ちになったのを記憶している。
結局、諸般の事情で、自由ヶ丘での開業は取りやめになったが、わざわざ調査してくれた佐藤先生の思義はいつまでも覚えている。
やはり開業は「場所」がかなりの成功、不成功の重要なポイントとなってくることは間違いない。
開業医も、開業後30年程たってくると、そこらへんの「眼」だけは、例え私でも肥えてくる。
自分でも、ぐうたらでどうしようもない理事長だと思っているけれど、私には、これだけはと心に決めている決め事がある。
勤務医が開業しようとする時、どんなに彼等が貢献度があり、辞められる事によって、経営が打撃をうけても、基本的には彼らの将来の事を思い、反対はしないということだ。
但し、技量がある一定のレベルに達していない時は別だ。
開業はやはり、人生の一大事であり、ターニングポイントとなる。
よく歯科医師免許証や保険医登録票をとりあげて、開業を妨害するという輩の話を聞くが、そんな事までして医院の業績を上げたいのかと不思議に思う。
こういう例があった。仮にY君としよう。
Y君はたしか、45~6才だったと思う。開業年齢にはとっくに到達しており、開業候補地を、今まで何度となく見て欲しいと言ってきて、その都度駄目だしをしていた後、何回目かだった。
A市の物件をもってきた。一緒に見に行って、これはいけるぞと言ったが、Y君はひるんでしまった。
ひるんでいる間に、他のDrにとられ、そのDrは大変繁盛しているという評判が聞こえてきた。
Y君はその後、Z市の他の物件を持ってきた。さっそく見に行ってみて、これもOKを出した。
Y君はいわゆる“やり手”のドクターだった。
しかし、年齢的にも成功するにはここらへんが最後という感じがした。Y君いわく、
「先生、実は俺、先生のところで、ずっとお世話になってもいいと思っています」
私は心の中のどこかで、「そう言うんなら、そうしてほしい。願ってもない事だよ」とささやいていた。
しかし、次の瞬間、自分でも思ってもないことばが出てきた。
「あそこはいい場所だよ。Y君がやらないのなら僕がやるよ」
Y君は呆気にとられたような顔をしていて、顔を紅潮させながら、「そんなにいい場所ですか…」と言った。
結局、3日間考えさせてほしいと言って、その後Y君はZ市で開業する事となった。
なんで自分がそんなことばを言ったのか、解らなかった。
その後、Y君が辞めて、しばらく点数は大きく減少したが、半年も経つと、不思議な事に前の点数に戻っていった。
やっぱり、心のどこかで私のような人間でも、本当の真実を語りたいという、良心みたいなもの、彼が開業した方が幸せになれるという直感みたいなものがあったのかもしれない。
Y君はその後一人ではとてもやりきれないほどの患者さんに恵まれて、繁盛医院となった。
とにかく勤務医が開業しようと思ったら反対しない。そして、見に行って欲しいと言えば見に行き、思った事をありのままに言う。
なぜならば、彼等の人生の後半生の大きな大きなターニングポイントになるからだと思っている。
自分自身、典型O型人間の、我ながら適当な男と思っているが、これだけは数少ない私の“決め事”だと思っている。