山北医院を引き継いで開業してから、はや20年経とうとしている。
山北町といっても、東京・横浜の人にはピンとこないかもしれない。
神奈川県最西端の町で、人口1万1,000人、酒水の滝や丹沢湖で有名な観光の町で、静岡県や山梨県との県境にもなっている。
20年前はO先生が開業していて、私と彼が昭和大に非常勤で勤務していた縁により、そしてまたO先生が急にスウェーデンに留学する決心がつき、何とか買ってくれないかとの事で、最後は熱意にほだされて、渋々買うようになったいきさつがあった。
以前、丹那トンネルが開通する前は、東海道の本線となっていて、「鉄道の町」として知られていたが、現在では御殿場線となってしまっていて、若干過去の町になりつつあるが、そんなわけでJRのOBが多い。
人口は確か、譲り受けた時は1万4,000人位なので、日本中これからこうなるかもしれないが、若干やはり過疎となっている地域であろう。
それにしても20年間はあっという間だった。
20年前、今年結婚した長女たちを連れて伊豆下田に行き、山北開業をしたら、しばらく家族旅行もできないと悲壮な覚悟でいたのを思い出した。
山北で開業してみると、圧倒的に老人の患者さんが多かった。
60代70代が多く、20代30代が非常に少ない土地柄だった。
しばらくやっていると、いろいろと他地域と違う点が目についてきた。
どの地域にもあるように、月刊で山北もタウン誌を出してる。
その中で特筆すべきは、和歌や短歌のサークルがあり、結構な力作がそれぞれ取り上げられている事だ。
これは小田原でも南足柄でも箱根でも見た事がない。
文化度、教養度が高い。
出入りの静岡銀行の支店長Aさんは地元の高校の出身者で、この点について「一種の独特な独立国的コミューンを持つ地域で、融資もこげつきとかになると誰かが穴をうめ、そしていつの間にか払ってしまう。
銀行にはありがたく手堅いお客さんが多いところです」と述べていた。
確かに金払いは9医院の中で抜群に良い。
ほとんどカードというものを使わない。
カードの使用頻度は東京に近づけば近づくほど多くなり、山北はほぼ0に近い。
しかも契約の決まった翌日などに、すぱっと払う事が多く、これもAさんによると、「山北は裕福な人が多い。
だって先生、横浜と同じくらいの面積を1万人ぐらいで分け合っているんですから」との事である。
山北はその規模の割にお祭りが多い。
県指定無形民俗文化財になっている「百万遍念仏」や皆瀬川地区の「お峰入り」や室生神社の流鏑馬など、他地区では見られない独特の伝承文化がある。
支店長のAさんによると、「いい意味でも悪い意味でも伝わるのが早い。
いちじま歯科がヤブだと言われたり、医療事故をおこしたら、3日で伝わりますよ」と、おっかない事を言う。
そうこうしているうちに時が経ち、箱根医院でずっと以前にインプラントをしていたNさんという患者が、「先生、山北でも医院やっているんですよね」と話しかけてきた。
「山北って不思議なところですね。住んでいる人の教養度がかなり高いんです」と言ったら、
「私の母は代々山北なのよ。先生、さすがに勘が鋭いわ。母は山北の先祖は中国だって言っていたわよ。つまり帰化人があそこらへんに住んでいたのよ。当時の帰化人は日本よりかなり文化的に高かったのよ。山北って、瀬戸という名字が多いでしょ。当時の日本人は瀬戸物の技術が劣っていて、それで帰化人が山北に住んで、瀬戸物を焼いていたの。それで瀬戸さんが多いのよ」
なるほど、それで百万遍念仏が中華街でやっているようなドラや太鼓を打ち鳴らしているわけだ。
なんとなく納得できるようになってきた。
終戦の日、日経新聞を読んで驚いた。
山北町谷峨駅周辺のトンネルの中で玉音放送を全世界に発信する基地があったとかで、写真入りでそのトンネルが写し出されていた。
さっそく当グループの3,4人の山北出身者に聞いたところ、誰もが初耳だった。
ますますミステリアスだ。
聞いたところ、谷峨近くに軍需工場もあったとの事だ。
山北は他地域も同様だが、過疎に悩まされ始めている。
若者はどんどん東京、横浜に出ていってしまっている。
しかしながら、子育てをしている人が多い我が山北のスタッフが、山北町が福祉に厚く、子育てをしやすい設備を整えていると口をそろえて言う。
横浜の人間に言ったら「山北に引っ越したい」とも言っていた。
自然が残り、人情豊かな山北を私はいつの間にか好きになってしまった。
20年間私の稚拙な治療を受け入れてくれた山北町の人々に、深く深く感謝をしたいと思っています。