予備校雑感(中西進先生文化勲章受賞にあたっての思い出)

上海デンタルショーから帰ってきてほっとしていると、懐かしい人の名前が、私の目の中に飛び込んできた。
“文化勲章受章、中西進先生”
中西先生は一般的には“中西万葉学”の大家として知られ、何冊もの日本古典に関する著作者として有名であるが、私にとっては予備校の時の恩師であり、人生の師でもある方である。
当時私は、なんと駿台予備校にも落ち、父親に“予備校も受からないこの馬鹿息子”とさげすまれ、(みのもんたの“馬鹿息子”ということばで当時を思い出した)すさんだ毎日で、東京大塚にある武蔵予備校に通っていた。結構、玄人好みのする多士済々の先生がおられたが、なかでも出色なのは、国語を担当されていた中西進先生だった。
先生は、「私は大学の講義(確か成城大学の教授だった)よりも予備校の講義の方がずっと好きで生きがいを感じる。なぜなら、君たちは一生懸命私の話を聞いてくれるからだ。」とおっしゃってくれていて、私たちを感激させた。
元々、理系にはむいていなく、文学部に行きたかった私は、“三島由紀夫の割腹自殺”に遭遇して三島文学にかぶれ、せっかくの受験の追い込み時期に三島作品を読みまくって受験に失敗した。(いいわけになってしまうが)
私にとって、先生の授業は一服の清涼剤といっても大げさではなかった。
先生が時々脱線して、万葉集や源氏物語、枕草子の話をされていて、ぐいぐいその話に引き込まれる自分を感じていた。しかしながら、前年の失敗から、それらに熱中するのを必死でこらえていた。
先生は受験生を慰められ、時には鼓舞し、時にはのせる達人であった。
本当に本来の自分の意志ではなく、ただ単に、親父のいいなりになって、理系を志望していた私に文学部への渇望感を、何度となく味あわせて戴くような方だった。
そうこうしているうちに、理系か文系か迷っているうちに時は過ぎ、親父のすすめで、私立は文系、国立は理系という変則的な受験をして、結局今日に落ち着いた。
せめてもの気持ちで、大学に入ってからは、中西先生の著作を何度となく読み返していた。
先生は、日本文化、そして文学のすばらしさを現代に伝える語り部であった。
先生は受験も押し迫ったある日、「本当に君たちの運命は、軟体動物のようになってしまうんでしょうね」と謎解き問答のようにおっしゃった。
「如何(いか)になりゆく我が行く末」
そういって最後の授業を締めくくられた。
40年以上たった今では、先生のことばを思い出し自問自答する。
“いか(烏賊)になりゆく我が行く末”