小鳥屋のおじさん

だいぶ夏めいてきて、そろそろスタッフも夏休みをどうするという話題が増えてきている今日この頃で、手広医院受付のKさんとよもやま話をしていると、Kさんの妹が東横線の新丸子に住んでいるとの事で、20年間も武蔵小杉に住んでいた私と話がはずんだ。
武蔵小杉と新丸子の駅の間はとても短くて、武蔵小杉の人間が新丸子に買い物に行く。
そしてその逆もざらにあった。
「新丸子の駅前もだいぶ変わったろうな」と言うと、「駅前に文房具屋さんがあって、小鳥屋さんがあって、有名な喫茶店がありますよね」との事。
「あの小鳥屋さん、まだあるんだ」
小学校1、2年の頃、学校の帰りにその小鳥屋に行くのが日課だった。
今からもう半世紀以上も前の話だ。
小鳥屋の店主は今の私ぐらいの年で、非常に温厚で優しい人だった。
私は何としても小鳥が飼ってみたくなり、一番安い「じゅうしまつ」を両親を説き伏せ買ってもらった。
おじさんから色々な飼育の方法を聞き、張り切って飼い始めた。
最初のうちは元気だったジュウシマツが急に弱ってきた。
さっそく父と籠に入れて「小鳥屋のおじさん」の所へ様子を聞きに行った。
「坊や、これはもう駄目だ。一日もつかどうか」
それを聞くや否や号泣したのを覚えている。(その頃は大変ナイーブであった)
困り果てたそのおじさんは、父と私にその店に置いてある小鳥の中で、最高級のカナリアと交換してあげるとの話を切り出した。
私はそのジュウシマツに対する思い入れが強く、父とおじさんの説得にも関わらず、その案を断固として拒絶した。
そのあくる日、学校が終わるとそそくさとおじさんのところに出かけた。
「坊や、やっぱり残念だけど駄目だったよ」と言われ、調子の良い私は昨日号泣した事も忘れ、
「おじさん、昨日話のあったカナリアでいいからちょうだい」
と恥じらいもなく言うと、
「坊や、男の約束は一度きりだ。もう駄目だ」と言い放った。
私はまた例の如く泣きじゃくり駄々をこねたが、おじさんは頑として言う事を聞いてくれず、しまいには「もう帰れ」と言われ、しぶしぶと家路についた。
これを機会にぷっつりと小鳥屋には行かなくなった。
小学校も高学年になると野球に夢中になり、小鳥を飼うどころではなくなった。
中学になり、たまに新丸子で下りて小鳥屋を覗くと、おじさんのいつもと変わらぬ温和な顔がうかがわれて、ほっとするものがあったがその後は疎遠になってしまった。
大学に入り、帰京した時に新丸子にぶらっと行って懐かしい小鳥屋さんに行くと、息子と思わしき人がいておじさんは不在だった。
社会人となり、我が家も武蔵小杉から引っ越し、すっかり縁遠くなってしまった。
後年、なぜおじさんの態度が変わったのか推理すると、1回目は私の純情さにある種感銘してくれたが、2日目にジュウシマツが死ぬと、態度がころりと変わったところが非常に気に入らなかった。
男としての首尾一貫したものがない。
それをここで許したら、この子の将来のために良くないと思ったに違いないと感じている。
おじさんは町内の顔役で、お祭りの時などは中心人物として活躍していた。
その頃の大人は町内なら町内の中で町ぐるみで“子供たち”を教育していかなければならないという使命感みたいなものがあった。
自分などはずいぶん“近所のおじさん”に怒られながら育った。
そんな中で人間としてやっていい事悪い事、そして“人間としてなすべき事”の教育があったと思う。
そういった事もあって、安易にカナリアをあげては私の為にならぬと思ってくれたのだろう。
小鳥屋のおじさんと同じ年齢に至って、今となってはおじさんの深い愛情を感じる。
機会を見て新丸子を訪れたら、その小鳥屋さんを訪ね、たぶんもう亡くなってしまっているおじさんの話をしながら懐古したいと思っている。