オヤジの入れ歯

新入医局員の説明会及び懇親会をやる。

今年は出戻りを含めると9人入局者がいて、それだけに迎え入れる方も大わらわである。

私も、新人に対してついつい、あたかも5、6年のキャリアのあるドクターに話している様な気持ちで熱弁をふるってしまう。

 

今から40年も前、25歳で北大を卒業して昭和大に就職した。

昭和大の久光教授、和久本教授その他の先生に大いに鍛えられ、緊張しながら仕事をしていたのは覚えているが、その他の事はほとんど忘れてしまっている。

ただ一つだけほろ苦い思い出として残っているものがある。

オヤジは大変歯が悪く、私が大学に行く頃は上は総入れ歯を入れていた。

オヤジに聞くと通い慣れている歯医者は会社の近くにあり、偶然その先生の開業の初日にあたり患者第一号になったようで、そういった縁もあって、非常に大切にしてもらっていて“自分は特別な存在”扱いされていると常々言っていた。

また彼は入れ歯の名人で、オヤジが今まで苦労して通っていた歯医者は皆ヤブだったが、その先生にかかってからはほとんど意識しないで食事がとれる様になったと絶賛していた。

「晴司、あの先生に弟子入りをしろ」

その先生はその頃の東京では当たり前だが、義歯がうまく、またオヤジのような単純な人間に魔法をかけるのがうまいようで、その当時としては破格の40万(現在だと120万くらいだろう)もの金をとられて、それでもオヤジは「何でも噛めるので安いものだ」とつぶやき、オフクロは悲鳴を上げいてた。ある時ついに恐れていた事がおき、

「先生、いっちょもんでやって下さい」ぐらい言って、私がその先生に会う約束を取り付けてきてしまった。

今と違い、大正生まれの父親はそれなりに権威があり、とてもとても逆らえる雰囲気はなく、わざわざ大学病院に休みをもらって、父親に連れられてその虎ノ門の歯医者に出かけて行った。

当方は大変緊張して、先生はいろいろ説明してくれるのだが、こちらは田舎から出てきた無学の新人で何が何だかさっぱり理解できなかった。

恐らくオヤジは「弟子入りさせてくれ」とか馬鹿な事を言ったに違いなかったが、先生は非常に人間の出来たにこやかな好人物で、

「将来いろいろやりたい事があるんだよね」とか気を遣ってくれ、はやるオヤジを牽制してくれた。

存命であれば80歳は軽く越えられているが、一度その虎ノ門の場所に尋ねてみたいと思っている。

 

おそらくこの間の食事会に出席したドクターの半数は、自分の言う事の半分も理解できなかったであろう。

その時先生は「東京歯科出身」とおっしゃっていたが、その時の私は東歯大の校舎が水道橋にある事ぐらいしか知らず、東京近郊の歯科大学出身者に比べて一般的な知識は明らかに劣っていたと思う。

それでも必死で一年間いろいろ勉強して、何とかこうとかいろいろ知識を身につけた。

ある日自宅の洗面所に行ってみると、オヤジの入れ歯がカップの中に水に浸かって置いてあった。

どうやら前の日に酒を飲んで、休みの日なので入れ歯を放置してあったみたいで、まじまじと義歯を見てみると、私の感覚からいって伸ばすところを伸ばしていないような、要するに患者の慣れで噛んでいるような義歯で、いろいろな要件を満たしていなかった。

これならば自分でも出来ると思ってしまった。やはりオヤジは魔法をかけられているのだ。

その夜オヤジに言った。

「お父さん、俺が作ったらあの入れ歯よりもっといいのが作れるよ」

「本当か」

「本当だ」

「じゃあ、やってみてくれ。通うから」

オヤジは昭和大に通ってくれた。私は補綴科にいる友人と合作で、オヤジの入れ歯の製作にあたった。

それなりの経費と知恵を合せて作ったつもりだった。入れ歯は完成し、オヤジにセットした。

「どうだ、よく噛めるだろう」

ところがオヤジの顔色は優れなかった。オヤジは我々の力作は全く使えなかった、よりも使わなかった。

オヤジが名人の入れ歯を使っているのは明白で、聞くまでもなかった。

東京の広尾でアルバイトをしていた時、オヤジの下顎の奥の歯の抜髄をした(神経を抜く事)事があり、その時ついでに上の入れ歯も作ったが、ついに名人の入れ歯を使い続けて、私の入れ歯は一回たりとも使わなかった。

オヤジが急死した時、机の引き出しに、丁寧に箱の中に私の力作の2つが入っていて、お棺にはあの世に行った時使えないような入れ歯を持っていても食うに困るだろうと思い、名人の入れ歯を入れてやった。

名人とオヤジは気が合い、たぶん内緒で何回も通院していたものと考えている。

卒業したての頃は所詮そんなもので、力んだところで空回りしたりするものだ。

今、25、26の青年歯科医師はどのような歯科医人生を歩んでいくのか。

彼等が必死で食い入るような眼でこちらを凝視している顔を見ながら、昔を述懐した。