恩師 鈴木武教授のこと

人には誰でも良い思い出があるものだ。
正月、年末からのしつこい風邪に悩まされた。
臥せっていると、俳優の二谷英明さんが亡くなったとの報が入った。
彼は多くの後輩芸能人から慕われており、彼の座右の銘は「懸命に生きる」という事だったらしい。
「懸命」というと大学時代の一人の恩師の顔が思い浮かんだ。 口腔細菌学の鈴木武教授だ。先生は本当に懸命に、熱心に、我々に指導してくださった。
先生が亡くなられた数年後、同級生Tと偶然会う機会があり、鈴木先生の懐古談が始まった。
Tは鈴木先生を「本当にスゴイ人だった」とめずらしく、真剣な顔つきで語り始めた。
Tが学生時代、生活に困窮していた事は知っていた。
当時の国立大学生は本当に貧乏な学生がおり、3日間飯抜き生活という人間はざらにいた。(何しろ、授業料が当時年間12,000円だった。現在は520,000円)
彼は鈴木先生(タケチャン)に私淑しており、よく研究室に質問をしに行っていた様だ。
ある時、金に窮して、事もあろうに、タケチャンに借金を申し込んだらしい。
借金の額、いつ返済するかなどをもじょもじょと言っているのもつかの間、タケチャンはポケットから、財布を取り出すや否や、無言でTに財布ごと放り投げたらしい。
Tは一瞬、何が起きたか解らなかったらしいが、タケチャンはTにくるりと背をむけて何も語らなかったらしい。
(その時、財布にいくら入っていたかはTも故人となってしまった今は知るよしもないが、)Tはそれを語り出し始め、いつの間にか涙声になっていた。
聞いていた私も、タケチャンの人間力のすさまじさ、そして、先輩達が何故タケチャンを尊敬し、敬愛していたかの理由がよく解った。
その後、Tは必死でアルバイトをして、借金をタケチャンに返済した事は言うまでもない。そして返済時も、タケチャンは無言で淡々としており、顔色一つ変えなかったらしい。
その会話をした時より、10年位たっただろうか・・・今でも時より心温まる話として、私はよく思い浮かべている。
Tの憶測によると、先輩の中には、タケチャンにお金を借りてそのままになっているケースも多々あるとの事だった。
一生かかっても追いつけない、越す事の出来ない人間としての幅の厚みと広さ、鈴木武先生のやさしい微笑みと共に、私は彼を思い出し、真の教育者とはこういう人だとつくづく感じながら、幸せな気分に浸るのだった。
彼のような人と巡り合えてよかったと・・・