教育者とは

今年も何人かの新人が入ってくる。
ドクターにしろ、衛生士にしろ、受付にしろ、本当に一人前になるまで育て上げるのは難しい。
大体こちらの言っている事がどれほど理解できているのか、疑問に思うことも多いが、自分の場合も何年もたった後に、やっと先輩や恩師から言われた事が実感できたという経験が有り、仕方のない事だと思っている。
私は、中学・高校は井の頭線の東大駒場駅から10分ぐらいの場所にある、駒場東邦という学校に通っていた。
駒場東邦は、中高6年一貫教育校で、卒業生は“駒東ファミリー”と言う言葉があるぐらい結束力が強い。
中高一貫教育校は中だるみというのがあり、当時は中2、中3、高1と、秀才君たちを除けば、あまり熱心に勉強せず、いろいろないたずらに呆ける時期があった。
中学2年のころ、伝説の英語教師であるY先生に習った。
初代校長の菊池龍道先生が日比谷高校の校長だった事により、菊池先生と行動を共にした先輩の個性的な先生が多いなか、Y先生はとりわけ個性的な方だったと思う。
先生は、映画の翻訳にかかわっていたとかで、映画界とは深いつながりがあり、中学1年の時は「サウンドオブミュージック」や「アンクル・トム」などに、先生の顔で安く、学年単位で出かけたものだった。
中学2年になると、中だるみに入り、まるで山ザルの烏合の衆というような感じになり、日々何かイタズラとか、おもしろいことがないかと捜し回るような状態で、世間では“お坊ちゃん学校”とか言われていたが、その実態は“駒東少年院”の如しだった。
Y先生は短躯(たんく)だが、情熱的で、怒る時は烈火の如く怒るが、普段は優しい方だった。
独特の関西弁で、一種異様な雰囲気を持っていた。
細かな事にはあまりこだわらない性格なので、悪ガキどもは、英語のレッスン5とかレッスン6を、3回も4回もやらせ、先生は駄じゃれまで同じ場所でやって、それに気づかず、まじめなクラスはレッスン12まで進んでいるのに、悪ガキクラスはレッスン6までしか行かず、中間とか期末試験の直前で、クラスによって進度があまりに違うので「何でやぁ」とか言われ激怒されるが、もう遅く、くすくす笑う悪ガキのかっこうのエサになっていた。
中学2年になって、先生は情操教育との事で、いかに前回の“サウンドオブミュージック”や “アンクル・トム”が良い映画かを力説して、次の映画の題目は忘れてしまったが、またまた映画に行く人数を先生が挙手するようにと言うと、ほとんどクラス全員が挙手し、先生はそれをうれしそうな顔をして数えていた。
しかしこれは、悪ガキたちのワナで、先生が人数分の切符を買ってきて配ろうとすると、本当の2、3人の良心派(彼等は本当にえらかったと思う)を除いて、誰も手を挙げない。
この時のY先生の怒りようは尋常ではなく、怒りのあまり、机に飛び蹴りをくらわす程であった。
「何でやぁ」と言われても、数人の悪ガキのボスが仕組んだ事で、皆くすくす笑って誰も手を挙げず、先生は大損をこうむったとの事であった。
こんな目にあえば、大概の人間はもう二度とやらないと思うのだが、人の良い先生は半年ほどたって、また悪ガキのボスが甘ったるい声を出して、Y先生に「Y先生、また映画に連れて行って下さい。」とか言って誘い込むと、先生は過去の事など忘れてしまい、嬉々として手を挙げた人間の数を数えていたのだった。
そして、さすがに今度ばかりは私も良心が咎めたが、良心と、仲間をぬけがけするという板バサミにはまり、結局は最終的に切符を配ろうとする先生の前で、手を挙げずじまいにいた。
一度ならず二度とは、先生の怒りは激しく、ショックのあまり寝込まれた程だった。
数年がたち、駒東の仲間は卒業して、各界に散って行ったが、さすがに分別ざかりになり、故人となられたY先生の話が懐かしく、いとおしく皆から必ず聞かれるようになった。
ある者は涙を多少うかべながら、あんな情熱的な先生はいないと言い、異口同音に先生を褒め称える言葉が続く。
「俺たちもあの頃の先生と同年代になったが、先生はしょうがない悪ガキと思って、怒ることは怒っても、かわいいと思ってくれていたと思うよ。風の便りに後輩から、先生がそうおっしゃっていたと聞いたよ」
皆その話に嘆息して、半世紀も前の悪ガキたちは今、人を教育する立場に立たされているので、身につまされるのだった。
そして、先生の我々に注いでくれた愛情、先生が我々にたたきこみたかった情操教育の大切さをやっと解る年になって、かみしめるように懺悔した。
私はといえば、教育とは息の長い勝負で、きっと私がお墓に入るころに、今の若い人たちは解ってくれるのではないかと期待し、Y先生にすみませんでしたと心の中で唱えながら、診療生活を送っている。