体罰(PART1)

先日、高校の時のミニクラス会があり、横浜中華街で同級生7〜8人と会食をした。
私の出身校は駒場東邦といい、在学当時は新興の中高一貫校だったが、今ではいっぱしの進学校に成り上がっているようだ。
同級生が集まると、いつも思い出として、でてくるのが「目黒警察事件」だ。
私が中学3年の春の日の1日。昼休みに悪ガキ連中と4階の教室から校門のあたりを眺めていると、アベックがいちゃいちゃと腕を組んでいるのが目に入った。
野球部のヤジ将軍のKがやじった。
「アツイヨ、アツイヨ」
中高一貫教育は6年の間に“なかだるみ”というのがあり、どうしても中学3年、高1あたりは、大部分は勉強せず、ホワァーとしている期間があり、その中だるみの真っただ中だった。
ヤジはエスカレートし、クラスの大半が加わって、大変なヤジ合戦となっていった。
そのうち自転車に乗った若いおまわりさんがやってきた。
私も野球部のヤジ将軍の1人だったので
「おまわりさん、ご苦労さんです」とやった。
「頑張ってくださいね・・・」とかKとか柔道部のAとかがノリノリで騒いでいた。
その時、クラスの札つきのワルで今度悪さをしたら、停学or退学確定のMが「税金ドロボー」と言ってしまった。
するとその若い警察官は自転車を全力でこぎはじめ、ぐるりと左転回して校門から校内へと入ってきた。
「マズイ」きっと、今の一声で学校に訴え出るに違いないと、我先にと座席についた。
昼休みが終わり、次の授業が始まり、さっきの心配が杞憂に終わると思いきや、学級担任のT.T先生が、真っ赤な顔をして10分休み中に現れた。声はかすれて震えていた。
「今、目黒警察の方が校長室に来られて、公務員を侮辱するような発言をあびせられたので、厳重に抗議したい旨の申し出があった。心当たりのある者は手を挙げろ。」
「おまわりさん頑張って」が侮辱するかどうかは判断に悩んだが、回りを見渡すとAもKも手を挙げていたので、“俺もだよなぁ・・・”と思いつつ手を挙げた。
肝心のMは焦った顔をしつつ手を挙げていなかった。
「お前らなんだなあ」と言いつつ、T.T先生に皆の前で鉄拳を一発ずつあびせられた。
さっきまでの浮かれた気分は吹き飛び、この先どういう展開になるのだろうと不安におびえ、震えていた。
T.T先生は野球部の顧問であり、学級担任であり、数学の教諭で中学1年の時から、高校3年までたっぷりお付き合いしていただいた。
卒業式の時に「市島、俺がお前に一番“愛のムチ”を与えたような感じがするな。」とおっしゃっていたが、“ハイ”と答えて心の中で“マチガイネーヤ”と思った。
後年、昭和大で学生の実習教官になったが、10名近くを教えていると、どうしてもからかいやすい人間と、そうでもない人間が出てくることが解った。
さしずめ私は最もいじられやすい人間だったのだと思う。
T.T先生は、昭和大の補綴学の教授山口先生と高校の時の同期で、わざわざ私の勤務先の昭和大に来られ“市島をよろしく”と言っていただいて、私を感激させてくれた、一生のお付き合いの恩師であると思っている。
さて、一発ずつパンチをくらって“お沙汰を待つという事となった”KとAと私は集まって、
“あれってMの言う事に腹立てたんだよな・・・”
“あいつ卑怯にもトボケ通すつもりだぜ”とか言ったが、
“これでバレたらMは退学だよなあ・・・”
という事で我々3人は、Mの事をかばい不問に付すことにした。
さて、翌日T.T先生は再び校長に呼ばれ、我々一同も再度校長室に呼ばれ、右に左に強烈なパンチを再びくらい、後日、目黒警察に陳謝しに行くという事で決着がついた。
パンチをくらってから自分の顔を鏡で見ると、T.T先生の手のあとが顔にべったりとついていて、これでそのまま家に帰ったら親にばれると思って、渋谷近辺をくるくると回って、顔をほぐして帰ったが、もう親には知れていて、あの頑固おやじのはずの父親は不思議にも何も怒らず、T.T先生のところに明日謝りに行くとの事で、
こりゃまいった、うちのガンコオヤジとT.T先生との対決かと思った。幸い、T.T先生と父は、意気投合して、
「生意気な息子で申し訳ありません。悪い事をやったら、びしびしと先生の気のすむまで殴ってやってください」とか言って、T.T先生も「立派なお父さんだ」と言ってくれて、親父もたまには良い事をすると、ほっとしたものだった。
さて後日、教頭と私とAとKが目黒警察に謝りに行く事で結着をつけることになったが、バスで行くと思いきや、校門にはタクシーがとまっていて、何でタクシーかと後々考えてみると、イタズラ小僧が途中で逃げ出すのをおそれていたためではないかと思われた。
目黒警察につくと、署長室に通された。
どんないかつい人が出てきて、どのように怒られるか戦々恐々としていると、ちょっと禿頭の、にこにこと笑っている署長が対応してくれた。
「イヤー、若い者が、かっとなってしまってね。すみません。」
なんと署長の方が謝ってくれている。
となりを見てみると、KもAもうっすらと涙をうかべている。
この出来事は後々、私の人生に大きな影響を与えてくれた。
人を許すことがどんなに大切な事で、それがかえって効果を倍増させる事を思い知った。
私はどんなあやまちを従業員がおこしても、あの時の署長の顔を思いうかべて「許す」もしくは「許そうとしている」
「坊やたち、いや坊やたちはないか。
君たちも、こんな事は気にしないで、しっかり勉強して下さいね。」
我々3人は平身低頭した事はいうまでもない。
涙にむせながら3人は感動していた。
この事件は、私を一変させた。くだらないイタズラやケンカに口をはさまないようになった。
その後、同級生4.5人がT医大のトイレでシンナーを吸っている所を発見され、その時は学校サイドは容赦なく停学とした。
この事件がなかったら、私もその仲間に入っていたかもしれなかった。何しろ始末書をすでに2枚とられていて、3枚目で停学という噂だったので、身を引き締めるようになっていたからだ。
大阪の桜宮高校の30発殴るというのは、体罰のレベルからはずれていて、あれは暴行だと思う。しかし、生意気ざかりで言う事のきかない、私の若いころのようなタイプは、おとなしく説教をされて果たしてどこまで有効かと思う。
大学に入って、私の入った北大歯学部は徒弟制のような所があり、またまたずいぶんと“愛のムチ”をいただいた。なかには、どうしても納得のいかない“理不尽な愛のムチ”もあったが、その時は“愛のムチ”は痛く感じた。
“愛のある愛のムチ”は痛く感じないものだ。
ある程度の体罰は有効であると思う。
今となっては、懐かしい出来事となったが、これをきっかけに一生懸命、使命感を持って働いている人間を決して揶揄してはいけないと、骨身にしみて思い、あの時の“愛のムチ”は私にとって、有効なものだったと思っている。