アイアムシックスティセブンイヤーズオールド

そろそろ受験シーズンが近づいてくる。
大学受験の年、受ける大学は全部落ち、予備校まで完落ちして大塚の武蔵予備校に通っていた。
代々木学院(現在はもうない)に優れた数学の先生がいるとのことで、特講の5回シリーズに通っていた。
ちょうど12月で、もう追い込みのシーズンであった。
先生の名前は渡辺次男先生といい、田舎の村長さんをイメージしたような朴訥とした東北訛りの先生だった。
先生は問題提起して考えさせ、それを答えさせるという方式をとられていた。
問題を考えさせている間、先生は教室をくまなくまわり、
「皆ここまでよく頑張ったね。あともう少しだよ。春はそこまで来ているよ。
頑張れ、頑張れ…」
とまるで小学生を励ますように言って回り、それだけでもぐっとくるものがあった。
最後の授業の時、ずっと咳込んでいる学生がいた。
見ると、恐らく地方から出てきて、栄養がいきわたっていないような貧乏学生で風邪をこじらせたようであった。
先生はその学生に近づくと、優しく「大丈夫かい?」と東北訛りの声でささやいた。
びっくりしたのは、その次の瞬間で、
「ちょうど僕も風邪をひいているんだ。薬を持っている。」
と言い、なんと薬瓶を出して2~3錠取り出し、
「これ飲んで治そうね。」と言って薬を飲むことを促した。
先生の授業を受けている者の大多数は先生の信者となり、惹き込まれていくようになっていた。
その学生は先生に言われたように薬を飲み、驚いた事に嗚咽して泣き始めた。
「泣くなよ、さあ、頑張ろうな。」
クラスの中の大半は、私を含めて目頭を熱くした。
「先生おいくつですか?」その学生は言った。
「なんで聞くの?」
「いつか恩返しをしたくて。」
「I am sixty seven years old.」
と先生はおどけて答えた。
頑張ろう。渡辺先生の喜ぶ姿を見るためにも、自分のためにも、私は思った。
やがて春が来て私は志望校に合格した。凡人で恩知らずな私は、すぐに渡辺先生の事は忘れ、喜びに浮かれて札幌へと旅立ってしまった。

受験シーズンが近づくと、ふと渡辺先生の柔和な顔を思い出す。
そして理想の教育者とはあのような人だとつくづく思う。
最後の共通一次試験となる今年、受験生の緊張した顔を見ると私は思い出す。
「アイアム シックスティセブン イヤーズ オールド」
今年ついに私は渡辺先生の年に至ったが、渡辺先生の何分の1かも徳を積んでいない自分を恥じらいながら生きている。