あまりの暑さに気力もうせ、ぼぉっとする毎日である。
こんな時は“トットちゃん”の力をもらおうと、池袋の東京芸術劇場へと出かけた。
トットちゃんとは、黒柳徹子さんの事である。
小さいころ、テツ子と言えないで、自分のことを“トット”と言っていたところから“トットちゃん”と言われるようになったそうだ。
終戦の日に行われた東京フィルハーモニーのハートフルコンサートは、もう26回目を迎えるそうだ。
黒柳徹子の著作“窓ぎわのトットちゃん”は800万部という、戦後最大のベストセラーだった事は御存知だろうか。
何十年か前“ザ・ベストテン”という歌番組を久米宏と二人でやっていた事は、もう若い人は知らないかもしれない。
歌番組ではめずらしく、録画ではなく生番組で、そのハプニング性が人気をよんでいた。
“その日”は私も、うすぼんやりとその番組を見ていた。
番組の途中で、当時シャネルズと言われていた現在のラッツ&スターがファンからインタビューを受けるシーンがあった。
リーダーの鈴木雅之に少年が、
「黒人のくせに何でフランスのメーカーの名前(シャネル)をつけたのですか」という質問をしていた。(シャネルズが黒人のような化粧をしていたため)
鈴木がもごもごと答えたその後、黒柳徹子が
「さっき、黒人のくせ、とおっしゃいましたが、そのように皮膚の色や国籍で高い所から“・・・のくせに”というのはやめてもらいたい。
非常に私は悲しい」というような事を毅然と言い放った。
生番組でまさしく、ハプニング的な事に対して、きっぱりと自分の意見を言う勇気と正義感に私は圧倒され、それ以来、単なる“玉ねぎおばさん”と思っていた人に一目も二目も置くようになってきた。
コンサートの間にも言っていたが「徹子の部屋」はもう40年も続いているそうだ。
延べ10000人もの人をインタビューして、世界で一番インタビューした人間だと言っていた。
彼女は非常に若々しく“きれい”という表現が適切だろう。
齢82とはとても思えないオーラを持っていた。
しゃべり方は謙虚でありながら、力まず、威厳を持っていた。
途中、南スーダンの話となり、彼女が南スーダンに行っていた時は内戦も終わり、つかの間の平和な時期だったが、現在は再び内戦が始まり、大変な状態になっている様だ。
人口1000万で小児科が1軒しかなく、小児科医は2人しかいないそうだ。
その2人の小児科医は必至で頑張っているようだが、何しろ多勢に無勢だ。(都内の小児を二人で治療しているようなものだ)
その話を聞いた時は、医者をやっている次男坊に行って来いと言いたくなるような衝動に駆られた。
彼女がユニセフの親善大使となり、世界中の恵まれない子供たちのために尽力しているのは、戦争中、栄養失調になりながら、青森で多くの人の情けを受け、それに対して生涯、忘れ得ぬ恩を感じているからだと言っていた。
「徹子の部屋は、あと10年程やるつもりです」と力まずあっさりと言う。
楽曲はベルリオーズ、シベリウスと続き、最後にジョン・レノンのイマジンで終了した。
しみじみと8月15日の終戦の日を実感し、着実に自分の「やりたい事」を実行している黒柳徹子さんに改めて敬意を表したい1日であった。