たった一人のクリスマス

今日はクリスマス・イブ。
この年になると、イブのバカ騒ぎから逃れて、のんびり自宅でワインでも飲みながら過ごしたくなる。
夜10時頃、どうしても片づけなければならない用件で、湘南台の衛生士からTELがある。
携帯の周りが騒がしいので、余計にも
「彼氏と一緒か」と聞くと、
「彼氏いません。一人です」と若干声のトーンがさがる。
またまた余計にも「山下達郎状態なんだな」と言うと、
ますますトーンが下がってきたので、あわてて切る。
内心、あんなかわいい子なのに、なんで彼氏ができないのだろうと思った。
TELをかけながら、妙なものが視界に入った。青い見たこともない手帳だ。
つい先日、今までの住家が手狭になり、同じマンションの上階の広めの場所に移った。
引っ越しをすると思いがけず、懐かしい物と遭遇することがある。
見てみると、父親の手帳だった。年代は昭和50年だ。
父親のさほどうまくないくせのある字でびっしりと書き込んであった。内容を見ると、なんと求職活動をしていて、連日のように面接をしている様子が見て取れた。
面接に行っている企業は多岐にわたっていた。
昭和50年というと、私は北大歯学部の4年生で、父親はちょうど、
現在の私と同じ61才だったと思う。
当時、父は父の叔父の経営する自動車部品の会社の重役をしていて、先代がなくなり、その息子の代になってどうやらぎくしゃくしていた事は、うすうすと感じていた。
たまに私が帰省しても、会社に行かない日も多く、
「会社に行かなくていいのか」と聞くと、「俺は貴族だ」という得意のセリフをはいていた。
自分の年齢と同じ頃、連日のように求職活動していたとは……
父親は口癖のように「文科系には行くな。とくに文学部は行ったらこじきだ」と言っていた。
「早稲田のオーバケ(応用化学科、小保方さんの出身もそうだ)か
東工大の工学部に行け」と口を酸っぱくして言っている理由が解った。61才になって、ある程度ゆとりもあり、充実した現在が送れるのは、父親や、父親をさとしてくれた叔父のおかげだと思う。
その当時何も知らずに青春を謳歌していた自分が阿呆のような感じがし、涙が知らず知らずのうちにしたたり落ちていた。
12月18日は父親が生きていたら100才になる誕生日だ。
この間も紙袋を捨てようとしていたら、何か手ごたえがあり、取り出したら、父親の若いころの写真だった。
いつも誕生日には墓参りに行っていたが、今年は忙しさにかまけて行けなかった。
父親やら叔父やらのおかげで、自分の今日があるのであり、こんなに幸せな生活が送れるものだという事が、この年になってやっと解るようになってきた。
叔父の命日は12月13日。
叔父と父親の墓参りに改めて行き、いろいろ墓前で話をしたいと思った。

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若い頃の父