麻布学園というところ

受験シーズン真っ盛りである。
先日、東大医学部でかつ司法試験も通り、しかもイケメン君と、京大医学部生のクイズ対決がありテレビを見ていると、2人共とてもとても信じられないような出来で、京大は灘高校、東大は聖光高校出身という事であった。

私が小学校6年の時、中学受験した断突のトップ校は麻布学園であった。当時川崎の武蔵小杉に住んでいて、中学受験組は3人いて、結局麻布がT君、S君は芝、そして私が駒場東邦という事になった。
父親は代官山に実家があり麻布学園と近く、麻布のファンで、何やら私の事を日頃から馬鹿にしているふしがあったので、汚名返上をはかる意味では麻布に合格をすればそれを果たせるという可能性も考えたが、当時の私はかなりのマセガキで、とにかくかっこいい制服を着て、中学生になったら女の子にもてたいという気持ちばかりで、開成と芝は坊主頭が必須で絶対に拒否、栄光は学区外でパス。麻布は今となっては信じられないけれど、バッチがプラスチックでそれが何とも安っぽく感じられ、駒場東邦を見学に行った時の海軍兵学校にも似た制服にしびれ、難易度ではかなり低かった当校を受験する事にした。(本当にアホだったと思う。)
何しろ麻布の何たるかも何も知らず、親子共々東大に何人入っているかとか、偏差値がどれくらいかも知らず…という状態だった。
クラスで成績でしのぎを削っていたT君は麻布に合格し、私は駒場東邦ということとなった。
中学に入ってみると、駒東は1次試験と2次試験合格組に分かれ、この2次試験合格組のほとんどが麻布不合格組で、この麻布コンプレックスは激しいものがあった。
この時やっと麻布ってすごい学校なんだなと思った。
中学に入った最初の夏休みにT君と会ってみると、何やら元気がなく、あの秀才のT君が成績が真ん中より下との事で、
「市島君、麻布に行かなくてよかったよ。何しろ全然勉強しなくても授業だけ聞いて遊んでいても、テストではトップグループという人間が多く、かなりコンプレックスを感じているよ」との事であった。あと、衝撃的な話として「高校に行くと、授業中に生徒が吸うたばこで教室の後ろが見えない」とか「勝手にじゃん荘に行く」という話もあるとかで、また校則もなく自由というか自由すぎる学校の様だった。
大学入試に落ちて一浪となった時、予備校で左隣が麻布、右隣が開成、そして後ろが駒東の同級生であった。
昼休みになると我々駒東はパタンとばかりに睡眠をとり、開成はいつの間にか仲間が集まってきて数字の問題を解きあっていて、麻布は何やら文庫本を読んでいて、何を読んでいるのかと聞くと「リルケ」とだけ言った。駒東の同期とこれが校風というもので、だから我高は駄目なんだと妙に納得していた。

昨今、例の「モリカケ事件」で前川喜平氏が、そして前外相の岸田文雄氏がテレビで都内有名私立校を卒業しとアナウンスされていたが、それぞれ「麻布」と「開成」だと思いどんぴしゃであった。
麻布は独特のスノビズムで、橋本龍太郎、谷垣禎一、福田康夫、フランキー堺、北杜夫などを輩出し、開成は代表的OBとして渡辺恒雄がいる。

現役の大学入試直前の2月渋谷駅を歩いていたら、T君がなんとヒッピーみたいな格好をして女の子連れで私の前を駆け抜けていて、
「T君、どうしたんだ」と叫ぶと、一瞬私を振り返りまた走り去っていった。
私は入試で頭がいっぱいだったが、T君はどう見てもドロップアウトしたとしか思えなかった。
T君と私は結局一浪し、偶然その年の秋に予備校の前で遭遇した。
「去年は全然勉強しないで記念受験だった。今年は少し勉強するよ」と言っていて、麻布はどうだったと聞くと、
「すごく楽しかった。いい6年だった」との事であっさりと翌年、早稲田の理工に入学していて、その後建設会社に就職した。
我が駒東といえば、今年創立60周年を迎え卒業生はといえば、ぐっとスケールが小さく、亀渕昭信と数学者の秋山仁、そして作家の浅田次郎さんで、浅田次郎さんは中学3年の時にたしか転校になっていて、私のクラスメイトがサイン会で駒場東邦だと言うと、
「あの学校でも君みたいないい人がいたのか」と嫌味を言われたと聞く。

とにかく自由すぎる程自由で、しかもしっかりとした考えを持ち流されず、各界で人材を出し続ける特異な学校、麻布。
私の人生において、中学校に入って初めて直面した大きな壁と畏敬の念を持っている学び舎である事は間違いない。