父とラグビー

今日、父の墓参りに行ってきた。

もちろん日本中を感動でいっぱいにさせたラグビーチームがワールドカップで3勝した事の報告も含めての事だ。

父は青学ラグビー部の主将をやっていて、いわゆる「ラグビーきちがい」だった。

昭和30年代、まだ日本が貧しくテレビが一家に一台しかない時、チャンネル権はラグビー中継の時のみ、父が握るのは慣例だった。

テレビの真ん前にどっしりと陣取り、やれ「ノックオン」だとか「スローフォワード」だとか大声で叫んでいたのを思い出す。

私が幼い頃、父は私をラグビー少年にしたかった様で、秩父宮ラグビー場に再三連れて行かれた。

その時に、父が私に語りかける事は、秩父宮様(昭和天皇の弟)がいかに立派な人だったか、他の皇族たちと比較して別格の存在で、彼の死は日本の損失である様な事と、父の幼少期、那須高原で昆虫採集に行った時、昭和天皇と草むらの中で遭遇して、父が最敬礼したところ、昭和天皇が「イヤー、元気でいいね」とお言葉を賜って感動した(大正生まれにとっては、生涯忘れ得ぬ事だったらしい)、との二つのエピソードを耳にタコができるぐらい話をされながら、秩父宮ラグビー場に出かけて行った。

 

青学は格別にラグビーが弱く、秩父宮ラグビー場は関係者しかおらず、そのうえ、その頃の日本の冬は寒く、ラグビーが何たるかも解らないので私は大声で帰りたいと泣き叫び、父はゲーム中にも関わらず帰宅するのであった。

そんな事を3、4回繰り返し、とうとうラグビー小僧にするのを諦めたようだった。

その当時は、王、長嶋、そしてジャイアンツ全盛の時代で、「ラグビー小僧」になる事は頭の隅にもなかった。

それでも、その後、ほぼ同年代の松尾雄治が、目黒高校、明大、日鉄釜石と進んで、彼のラグビースタイルは好きだったが、当時の“JAPAN”はニュージーランドのオールブラックスなどと比較するとまるで大人と子供で、マオリ族の民族舞踊のハカ(※)などを試合前にぶちかまされると、「何とか無事に、体を壊される前に敗けろ」と言いたくなる程であった。

それでも父親曰く、「One For All, All For One」(1人はみんなのために、みんなは1人のために)の精神、そしてこれはいまでも感心するが、レフェリーの判定に絶対服従というスポーツマンシップには、ショー化された野球にはない素晴らしいものがあった。

今でも審判の明らかなミスジャッジに、一つも文句を言わず、もくもくとゲームに打ち込む大男たちを見ると、ぞくぞくするような気持ちを味わうのは私だけではないだろう。

南アフリカに勝った時、引き分けを良しとせず、あくまでトライを狙っていったチャレンジ精神は、日本人の中で涙した者も多くいた。

そして体力的に劣る日本人でもやればできるんだという気持ちをもたらしてくれた。

それと英国人の中にも「日英同盟」かと思わせるようなファンを、テレビが映し出していてうれしかったし、老ラグビーファンと思われる70~80才ぐらいの男性が涙しているのを見て、父親もあの場所にいたならば号泣していただろうと思うと、目頭が熱くなる思いであった。

 

(※)ハカとは

本来はマオリ族の戦士が戦いの前に、手を叩き足を踏み鳴らし自らの力をし、相手を威嚇する舞踊である。現在では国賓や海外からの訪問者を歓迎する舞として披露されるほか、ラグビーニュージーランド代表(オールブラックス)が国際試合前に舞う民族舞踏として有名である。ハカはニュージーランドでは一般的な民族舞踊であり、現在では相手に対し敬意や感謝の意を表する舞として披露されることから、結婚式、葬儀、卒業式、開会式、歓迎式典など、あらゆる場面で目にする機会が多い。死者の御霊を供養し哀悼の意を表す形として葬儀でハカを舞うこともある。(ウィキペディアより)