炭焼きのおじさん

NHK朝ドラ「梅ちゃん先生」が堀北真希の熱演で視聴率がうなぎのぼりのようだ。
舞台は第二次世界大戦後の蒲田が中心で、7月6日現在では「梅ちゃん先生」がどうやら蒲田で開業する事になりそうだ、というところまできている。
蒲田といえば、私は当時、忘年会12回出席などという暴挙を繰り返し、肝臓をこわし、転がり込むように蒲田の○歯科に開業までの2年間お世話になった事があった。
蒲田は町工場が多く、下町的雰囲気があり、人情深い土地柄で、すっかり気に入り、2年間は充実した毎日を過ごした。
○歯科医院は先代が亡くなり、代々雇われ院長を雇って、運営している歯科で、私はそこの5代目か6代目の院長ということになって働く事となった。
○歯科医院には、未亡人のおばあちゃんと娘さん(といっても私より年上)と、その御主人で、皆とりわけいい人たちで、毎日楽しく診療生活をおくれ、筆舌に尽くしがたい恩を受けたと思っている。
そんな○歯科医院で唯一困った事は、補綴関係(入れ歯やクラウンやブリッジ)をほとんど保険でやらない事だった。
患者さんによっては、全部保険でやってくれる事を期待してくるのだが、その時はまだ都内では、このような形態の歯科医が多かった。
クラウンなどが保険外でしかできない事を説明すると、ある者は憤慨し、ある者はあきらめてお金を払うという感じで、しばらくはその説明をするのが嫌で、気難しい患者さんなどには、どのように説明したら良いかどぎまぎしたものだった。
ある時、いかにも町工場のベテラン職人というような人が来られ、口腔内を拝見すると、前歯がかなり悪く、被せなければならない状態で、残念ながら経費が結構かかってしまうというケースであった。
根管治療(歯の根の治療、建物でいうと土台工事)が終わり、いよいよ上の被せる物の説明をしなければならなくなって、その患者さんが帰った時、Oさんと助手のSさんが窓を開けながら笑っている。
なんで窓を開けるか聞いてみると、2人が異句同音に
「だって、くさいんだもーん」と言った。
普段そんな事を滅多に言わないOさんが
「先生、あの人は自費は無理ですよ。詰めて終わりにしましょう。」
私は「人は見かけによらないよ。あの人はきっちり時間は守るし、案外自費を望むかもしれないよ。」
Oさんは「そうですか。あの人、炭焼きのおじさんみたいじゃないですか」
炭焼きのおじさんとは何かと聞いてみると、山で炭を焼いているおじさんの事で、油やニスが、その方の顔についている事があったので、そう言ったようだった。
炭焼きのおじさん話で盛り上がり、スタッフは絶対自費をやらないと言い、私は自費をやってくれるような気がしきりにしていた。
当時の私は、ちょうど開業前の梅ちゃん先生と同じような立場で、まだまだドクターとして未熟で、技術も自信もあまりないような状態だった。
NHKの梅ちゃん先生を見ていると、その当時の私と重なり、私を育ててくれた蒲田の人情味のあるスタッフ、そして患者さんに感謝する気持ちでいっぱいになる。
さて、いよいよ自費か詰めて終わりにするか患者さんに聞かなければならない時がきた。私も決心して、詳しく被せなければならない状況を説明した。
周りは固唾を飲んで、そのおじさんの返答に注目していた。
おじさんは、あっさりと「やってください」と言った。
そして、こうつなげてくれた。
「私は先生にかかるまで、歯医者が嫌いでした。でも先生が、一生懸命に治療するのを見ていて、先生が好きになりました。前歯は高いと聞いていました。お金は準備してあります。先生の思う通り、存分にやって下さい。」
周りを見渡すと、OさんもSさんもびっくりした顔をして、炭焼きのおじさんと私を見つめていた。
何ヶ月かたって、治療が終了した。炭焼きのおじさんは何べんもお礼を言って、去って行った。
大学病院勤務で、開業医としての苦労も全く知らなかった私に、初めて“自信”と“誠意”という言葉の意味を教えてくれた炭焼きのおじさんだった。