七転び八起きの男 シャープ中興の祖 早川徳次

50年程前の事である。私がまだ小学校3年か4年のころ、嫌がる私を、大阪から上京してきた母の叔父の待つホテルオークラまで、ひっぱって行かれた事があった。
母の叔父、つまり私の祖父の弟は、シャープの中興の祖、早川徳次と共に、シャープの基礎を作った、川本辰三郎という男だった。
母の事を“キミちゃん”と呼んで、猫かわいがりをしていて、私など眼中に入らないようで、私にとって興味のない昔話ばかりをしていた。
母の狙いは、私を何とか叔父に印象づけ、私の将来に役立たせようとする魂胆だったろうと思われる。しかし、話が佳境に入った時、とんでもない話を“叔父”がし始めた。
それは、母には耳だこだったが、私にとっては衝撃的で壮絶な話だった。話は大正12年の関東大震災にさかのぼる。
東京の下町の本所近くに、母たちの実家があり、“叔父”もそこら辺に住んでいた様だ。
地震がおきた時、早川徳次は仕事の虫で、地震の最中でも、仕事を続けていた様だった
子供2人と奥さんを“叔父”に託し、“叔父”は自分の奥さんと子供の全員を引き連れ、震災の中の東京を逃げ惑った。“叔父”の話によると、目の前に火の手が熱風のように襲い掛かり、失神してしまった。気が付いてみると、自分以外のすべての人が倒れていて死亡したという話だった。震災後、“叔父”は土下座をして、早川さんに詫びをしたのは言うまでもない。しかし早川さんは、その時、
「川本君が悪いのではない。気にするな」と逆に慰め、それ以来
一言も非難をしなかったとの事だ。
「私はこの時、早川さんに一生を捧げようと決心をしたよ」
涙ながらに“叔父”は語っていた。何も解らない私だったが、“Sharp”“早川さん”そして早川徳次という人間が、いかにすばらしい人間力を持ち、“叔父”との男の友情が、その後の早川電機、シャープの原動力となった事は十分に理解できた。
さて、焼け野原となった東京で、2人は再起を誓うが、見るもの、触れるもの、すべて家族の思い出が詰まっていて、東京はつらすぎたようだ。
シャープペンシルの特許を売って、心機一転大阪での再スタートを始める。
早川徳次は「七転び八起きの男」と言われ、幾多の苦境を這い上がり、ラジオ、ブラウン管TV、電子レンジ、電卓など、新製品に挑戦し続けた。私の本当の叔父(母の兄)もシャープの工場長を戦後やっていて、早川電機が開発したものを松下は、うまく応用して奪い取ってしまうと言って、松下幸之助を絶賛していたが、早川徳次は「人が真似をするものを作れ」と言って、意に介さなかった様である。
小学校もろくろく出ずに、極貧の辛酸をなめた徳次だった。何人かの人々に助けられ、支えられ、晩年は、その恩返しとばかりに社会福祉にその身をささげた。
今年になってから、液晶に頼りすぎたシャープの危機が叫ばれている。
台湾の鴻海精密工業の出資の交渉が難航して、さらなるリストラが必要との話となり、シャープにとって厳しい年となりそうだ。
しかし、日本の物づくりの精神の代表としてのシャープには絶対につぶれて欲しくないし、つぶしてはいけないと私は痛切に思っている。