ひと夏の思い出(我が家の1枚の写真より)

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平塚の竜城ヶ丘プールが今年で閉園になるという話を聞いた。
R134号線沿いに戦後すぐよりおそらくあった、あの老朽化したプールである。
私が小さい頃、平塚では唯一のプールで当時の私の周辺の子供らの「夏の最大の楽しみ」は竜城ヶ丘プールで1日過ごすことであった。
私も10円玉5つを握りしめ、開園から閉園まで遊びまくった。
当時の子供娯楽はメンコとか紙芝居やビー玉で、映画「3丁目の夕日」の世界であり、5円と10円のおでんを食べながら、芋の子を洗うような混雑のプールで黒人のように日焼けするまで遊んだものだった。
それにしてもかねがね私が暮らす小田原地区ではプールは1つなのに対し、なんで平塚は3つあるのか不思議であった。
それは平塚の海は長い間“遊泳禁止”であり、小田原は御幸ヶ浜の海水浴場がある事に関係していると思う。
我が医院の平塚出身者(←前述のホルモンちゃん)に聞くと、やはり彼等・彼女等は両親から“平塚はいきなり海が深くなるから遊泳禁止だ”と教えこまれている事が判明した。
つまり平塚の人間は、平塚の海がいかに危険かという事が頭にこびりついていて、それを知ってるかが“平塚人か否か”の差であるともいえるくらいの事実なのだ。
そこでまた前述の私の父親に関する夏の思い出を思い浮かべてしまった。
我が家に1枚の写真がある。
私と父親の写真で、私は3~4歳くらいで私は父親と海で手を取り合っているというより、私が号泣しながら父親の手を引っ張っている。
よく見ると、父親のはいている水着は“海パン”というより普通の“デカパン”である。
私が3~4歳の頃、よく我が家は平塚の海に行った。
その時かなり暑い日だったと思う。
かの父親は私(ずいぶんと3~4歳の割にはしっかりしていたと思う)と母親の制止もきかず、突然平塚の遊泳禁止の海で泳ぎはじめていた。
父親は大学でラグビー部と水泳部の両方に所属していたとかで、泳ぎはかなり達者だった。
母親はかな切り声をあげて制止したにもかかわらず、父親はスイスイと気持ち良さそうに泳いでいた。
ただでさえ貧乏な家なのに、このうえ父親が死んだらどうしよう・・と、私は脱兎のごとく海に入り、父親に戻るように叫んだ。
まさに“おのれの生活権の防衛”を叫んだような気持ちだった。
無鉄砲な父親は苦笑いをして戻ってきて、私はそれを見て泣きながら手を引っ張った。
母親は後々の教育のため、平和な写真を撮るつもりで持ってきたカメラで、夢中になってシャッターを切った。
子供には存分と偉そうな事を言いつつ、随分と無謀な事をやる人だった。
当時の私は真剣に怒ったはずだが、今は亡き人となった父親のほろ苦く、そしてまた思わず笑ってしまうような“ひと夏の思い出”となっている。